最新アルバム「スーベニア」を聞きながら、ゆっくりとブログを書く。今日から学校が始まるのか、急に電車のお客さんが増えたような気がする。いや、気がするのではなく間違いない。これで、電車の中があったかくなった。今まで寒かったもんね。
で、寒い中、オレが会社に早く出かける理由があった。駅に行く途中、大きな橋を渡る。そこから見える富士山が、すごくきれいなのだ。ちょっと見にくい写真もある。朝焼けにかすむ富士山は、青と赤と、そして白のコントラストが非常に美しい(携帯のカメラだとこれが限界でした。ちなみに、中央付近にあるビルではない陰が富士山。)。同じように橋を渡る人も、足を止めて富士山を見たり、富士山を見ながら歩いていく。富士山は、たとえ遠くに住んで直接見えないとしても、日本人の生活の中にしっかりととけ込んでいるのだと思った。
たしか、会計学でそんな手法があったと思う。ちゃんと覚えていないのだけど。先に入ってきたモノから順番に処理していかないと、何が起こるかわからない。あとにしておこうと思ったら最後、手遅れになるまで放置される。
虫歯の法則と思ってもいいのかもしれない。放置してもいいことが一つもないことからして、全く同じだろう。ただ、虫歯と違うのは、痛みは伴わないと言うことなんだろうけどね。
逆に、場当たり的という危険も含んでいるが、どうやって、そのバランスを取るのか。経験だけがものをいう世界なのか、それとも自分に与えられた条件から波及されてしまう効果をきちんと見切って(しかもほとんど瞬時に)対応できるようになるためには、何が必要なんだろうか。
一言、相談してくれればいいのに、相談もなく空回りされてしまった。俺たちが小学生くらいの頃の言葉を使えば、「かっちょわるい」。
相談することが「かっちょいい」とは言わないが、せめて「かちょわるい」マネだけはしてほしくなかった。残念。
電車の中で爆睡した。気が付いたらまだまだ半分もすぎていなかった。まだ眠気が襲ってきている。とっとと寝ます。
ウーロン茶だけで乗りきる予定が、急に呼び出された。会社じゃないけど。
と、頭痛がする。呼び出された用事が終わったら、早く帰ろう。
以上、携帯から更新。
今日の予定だった新年会が急遽中止に。まぁ、いつでも会える連中だからいいけど。
呼び出された作業も終わり、頭痛も治まり(薬局のおっちゃん、おまけの栄養ドリンクありがとう)、きょうは一日ゆっくり過ごすことにする。
すでに去年のことだが、「SEとは なんぞや」というテーマと、「SEになるための学校」というテーマで日記を書いた。昨日の飲み会で、SEがなかなか多く、いろんなことを話すことができた。そして、深く考えることがあった。昨日、飲み会を抜け出してから、ずっと考えていた。そして、なんとなくまとまってきたので、一気に書いてしまおう。
その1。システムが一般的になってくるほど、「当たり前品質」があがっている。そりゃそうだ。みんながシステムを使ってくれば、仕組みは自ずとわかってくる。だから、その分だけ求められる品質が上がってくるのは当然の話。でも、そんな単純なことに、これまで気が付かなかった。SEの奢りってやつだろうか。
その2。求められる知識の範囲を区分することなく、「SE」というくくりにとどまっている。業務系SEであれば、業務知識、ロジックが何より求められるはず。方式系SEといえば、ハード知識も含めて、その「挙動」とか「プロトコル」の知識を求められる。もちろん、業務系でも「勘定系」と「顧客管理系」では違う知識が求められるし、方式系も「回線系」と「ハード系」では全く違う知識が求められる。でも、世の中ではみんな「SE」でしかない。何でだろう。世の中にこれだけシステムが普及しているのに、それを作る人たちの区分がなかなかできない。世の中の人々が見る目が、きっとまだ「システム」でしかなくて、その先の「作っている人」には向けられていないと言うことなのだろう。
その3。結局やっぱり、みんな技術が好き。これは年代に寄るのかもしれない。今回の集まりは同年代。だから、技術を習得することに抵抗がない世代というバイアスがあるのかもしれない。そして、まだ技術的に未熟だという熟練の技術屋の言い分もあるかもしれない。それでも、昨日集まった人は技術を求めていた。しかも、驚くことに最新技術ではなく、もっと下のレベル。回線の発呼とか着呼、DBの拡張といった、本当の基本レベル。つまり、最新技術はいやでも目に入ってくる。それを使わせるためのミドルウエアも進化している。考えるスピードでアダプタを書いてしまえば、そのインタフェースから後ろは自動になってくる。だから、本当に下のレベルでの技術をしらないまま、使っていることが多い。だからこそ、こういった技術をちゃんと身につけることが必要なんだろうな、と思った。結局、やっぱり、みんな技術が好きなんだ。
SEに求められること。その1つは、技術の幅が広いことではなく、技術へのポインタがたくさんあること、なのかもしれない。技術を知っていることは必要だが、すべてを知っている必要はなくて、そこに対してどこを調べればいいのか、何を調べればいいのか、そのポインタをたくさん持っていることが、何より必要かもしれない。googleに頼るのもいいけど、やっぱりその筋の解説記事を見つけるには時間がかかる。それをいかに集めておくか。日頃からの種まきが物を言うのかもしれない。
教え子から夜中にメールが入った。「明日、連絡してもいいですか?」それだけしかかかれていない、余白の多いメールだった。ただ一言、「いつでも連絡してこい」とだけ、こちらも余白の多いメールを送った。そして、さっき電話がかかってきた。
「実は」から始まる彼の言葉は、どことなく力がなかった。最後に会ったのは5年前のことだから、まだ中学生。声の調子は間違いなく大人になっていたが、5年たったにしては大人びた以上に、力がない。
それは、彼の悩みの相談だった。きっと、田舎では相談できないことなのだろうと思って、話を聞いた。そして、できる限りのアドバイスをした。彼は「東京に行って、実際に会って話をしてもいいですか?」と、やはり力なく、オレに聞いてきた。「いつでも来い、泊まるなら泊めてやる」と、自分の部屋の汚さを考えずに、とっさにそう答えてしまった。そして彼にわからないように後悔した。あとで掃除すればいいや、と開き直って、彼の話を再び聞き始めた。
彼は自分の悩みを抱えて東京に出てくる。オレは、彼の悩みを受け入れて、ちゃんとした回答が出せるのだろうか。逆にオレに悩みが出てきた。でも、彼はちゃんと回答を用意していた。「先生の経験とか、考えが聞ければいいんです」そういう彼の言葉に、少しだけ安心しながら、彼の悩みを自分に置き換えて、彼にどう答えようか、考えてみることにした。
今日の夜は、長くなりそうだ。
もっとできる、と思う。それはやり方が違う、と思う。そして、それは間違っている、と思う。でも、何も言わなければ、何か行動を起こすこともない。それは、きっと「がまん」しているのだろうと思う。
それが楽だとは思っていない。目の前は楽かもしれないが、あとで大変なことになることは目に見えている。だから、何とかしておかなければならない。でも、自分から行動を起こすことはここ数日、本当に少ない。
どうしたもんか。
持ち歩いている機器。どれくらいあるのか、ちょっと考えてみた。iPod mini、携帯、ノートパソコンなどなど。そして、今目の前にある機器。テレビ、PC、空気清浄機(たばこ吸ってるし)、コードレス電話、スゴ録、プリンタ。部屋には蛍光灯がついてるし、ヒーター、掃除機、電気カーペット、シェーバー。
ふと、「元を取る」という言葉が浮かんだ。長く使ってるから、十分代金分の価値があったということを、お袋はよく使っていた。そう考えると、今、そこにある機器は元をとれるほど使っているだろうか。「まぁ、どこの家にでもあるもんだし」と、ムダに買ってないだろうか。
そんな無駄遣いとは別に、「ちゃんと使ってるのか?」という疑問もわいてきた。掃除機とか(コロコロ(正式名称を知らない)ですませてる)プリンタとか(あんまり印刷しない)。ちゃんと使わないと、当然元は取れない。
元を取るために、今そこにある機器をちゃんとつかって掃除します。はい。
自分には何ができるだろうと考えてみる。何ができるんだろうか。聞かれたら答えられない。そして、これならできそうだという、「できること」ではなく「できそうなこと」を答えるかもしれない。自分の来し方、行く末を見て、本当にできることってなんだろうか。簡単な問いだけど、非常に答えるのが難しい質問。
「あなたがやってきたことを教えてください」といわれたら、それは「来し方」を答えればよい。でも、現在形で「できる」ことを教えろといわれたら、何ができるのだろうかと考えてしまう。
できることって、なんだろう。そして、オレは途方に暮れる。
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この日記は、GNSを使用して作成されています。