秋におこなわれるネスペ(今は違う名前のようですが)の受験にむけて、通信教育を受け始めました。が、2種を受験してからすでに数年。すっかり頭の中から記憶が抜け落ちていました。こんな問題でるのか?本当に必要なのか?という自問自答が繰り返されつつ、気が付くと爆睡してます。
資格をどれだけ持っているか、という質問には、職務遂行能力は含まれていません。含まれている場合は、「医者」とか「弁護士」のような専門職になるのでしょう。SIerの場合は資格が必須という職業ではないですから、2種をもってたって、1種を持ってたって、結局それすなわち高度な職務遂行能力があるとは言えません。
もちろん、運転免許があるから、みんなプロのドライバーか?といわれても、それは違います。最低限の知識と技能があることを示しているだけです。これを資格の定義とすると、弁護士にも医者にも当てはまるのかもしれません。
意外と、アナログに「あいつはデキる」と判断する方が、資格にもダマされず、なんとなく本質を突いているような気がしますが、定量的ではないし、なにより客観的ではありません。
ここまで考えても、人が人を判断するのは難しそうです。
制限された世界というのは、その言葉の響きが窮屈感を思わせる。何となく身動きがとりにくいというか、縛られた感じもする。制限ということばがそうさせているのかもしれないが。
でも、制限されたところにこそ、新しい発見がある、と思う。分岐コンセント(ふたくちコンセント)を作った松下幸之助だって、「コンセントが1つしかない」という制限を、「2つにする」という逆転の発想に置き換えた。「パスポートサイズ」のビデオカメラも、パスポートが小さくなる、という「制限」を見事にクリアした。どちらも、「コンセントが1つしかない」「パスポートの大きさが変わらない」状況で安住していれば、何も起こらなかったに違いない。
もちろん、いいことばかりではない。法律の網の目をかいくぐる危険な商売はいつの世の中にでも存在するし、制限が甘かったりすると、勝手な解釈で破壊されてしまう制限というのも、少なからず存在する。
QCDの3つを同時に最適化することはできない、という制限は、今のところ、劇的な発見を見いだしてはいない。いつになったら、発見されるだろうか。または、発見できるだろうか。
直接的に毎日使うものではないのですが、VerisignのClass1のIDを持っています。1年間有効で、確か2000円程度だったはずです。今度の5月に有効期限が切れてしまう証明書を切り替えようとしたら、日本Verisignでは個人用証明書の発行は受け付けておらず、代理店経由の販売になっていました。しかも5000円と高くなっています。
うーむ、そりゃこまった、freeCAあたりに乗り換えようか?と、思っていた矢先、米Verisignが個人用証明書を17ドルくらいで販売していることがわかりました。これだと、日本円に換算しても、ちょっと安めの値段です。申請フォームは日本で申請しても、すべて英語なので、これまでと全く変わらず。ずっと使い続けたVerisignなら、今までつかっていたExpired Keyも全部見られます。
今までとやり方を変えたくないユーザに提供できることは、なんでしょうか。日本法人では販売しないけど、本社で販売しています、と一言言えば済む話を、ユーザに気づかせないと販売しないというスタンス(本当はそうじゃないかもしれませんが)。
ひょっとしたら、我々も、お客様にたいして、遠回しに同じようなことをしてないだろうか?
「高校生に対して、SEの仕事を一言で教えてください」といわれたら、なんと答えればいいだろうか。
これが大学生、というなら、話は何となくできそうな気がする。自分が大学を出てから今までの経歴が、そのものだから。でも、高校生となると話はちょっと変わってくる。なぜなら、大学に行く人もいれば、就職する人もいるし、なによりSEになりたいという希望が高校生の段階からあるとは思えない(あったとしても、たぶん将来は違う職業についていることがおおい)。
よくある誤解の「プログラマー」と「SE」の違いを教えたところで、それはプログラマーの理解を深めることはできても、SEがどんな職業なのかを知ることはできないだろう。つまりは、幅が広すぎるのだろう。システム開発のフローを全部教えたところであまり意味はないし、自動車メーカーのエンジニア、といえば、何となくわかったところで、曖昧さは結局捨て切れていない。
そう考えると、SEっていったい何なんだろう?
会社にいると電話をとる。その昔、「光ったらとれ」といわれた名残というか、たたき込まれたことだからだろう。そして、それは常識だと思いこんでいた。今でも電話をとるのは一番速い。周りが遅いのか、オレが速いのかはわからない。
路線バスといえば、「赤バス」と「市バス」の2つしか、世の中に存在しないものと思っていた。遠くに出かけたときに、赤バスでも市バスでもない路線バスを見たとき、非常に違和感があった。日本中どこでも、バスといえば赤バスと市バスの色をしているはずだと思っていた。
仙台では、七夕を旧暦で考える。たしか平塚も旧暦だ。7/7の七夕というのは、どこの誰が決めたのかしらないが、「しょぼい七夕」だとおもっていた。本当の七夕は旧暦、8月上旬だとおもっていた。1年に2度もくる七夕を、小さい頃は不思議に思った。しかも大小の区別もなく。
それが常識だと思っていても、場所を越え、時を超えたら、それが常識ではないことがある。
社内の常識が、世間の非常識になってたり、SEの常識が、他の仕事の非常識になっているということはないだろうか?そのためのアンテナは、きちんと働いているだろうか?
「ペンは剣よりも強し」という言葉がある。武力ではなく、言論で正々堂々と戦えば、結果で負けることはない、という意味だと思っている。「福爺自伝」にも確か書いてあったような気がする。(記憶曖昧。間違ってたら指摘してください)
逆の意味を考える。では、ペンより強いのは何か?
出版禁止という処分が、結論から言えば覆されたとしても、一度でもでてしまった、その意味は、実は「表現の自由」でも「言論統制」でもなく、単純に「自分たちの力を自分たちでコントロールできてるのか?」という警告だったように思える。
表現の自由は許される。しかしそれは、誤った表現をしたときの責任を十分果たすことに裏打ちされた自由でなければならない。小さな謝罪広告を出すことで贖罪されるような、そんな問題ではない。武力よりも言論が勝るのだというなら、表現を制限することが民主主義を奪うというなら、自分の力をコントロールできなければならない。
一番強い力を持つものは、自制心を持たないと、自らを破壊する結果になる。(と思う)
メールはこちらへ...[sugaken]
この日記は、GNSを使用して作成されています。