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2004/05版 その1


[前日へ続く]

2004/05/01 (土)


2004/05/02 (日)


2004/05/03 (月)

SEとは なんぞや(3)

他の業種と比較すると、おそらく、世の中の動向というものに、これ以上なく 左右されている職業だと思われる。法律や制度は医者も建築家も同じ。技術は どの業界でもスピードの違いこそあれ、結局同じこと。

医者の世界に「世の中がどうなっているのか」は不要と言い切れるかどうかは 分からない。医者の世界というスコープから見たときには、世の中の変化は それほど急激なものとは思えない。少なくとも、倫理観は。患者は変わってい くし、新薬もできている。新しい治療法だって。でも、それが社会を急激に 変えているか、という質問には、おそらく答えられない。それは、他の業種も 同じように思える。

そう考えると、SEは、おそらく世の中を劇的に変えられる、かなり希有な存 在だと思う。鉄腕アトムはまだできないけれど、携帯でテレビ電話をするく らいなら、なんとかできるようになった。ネットワークはいろんな可能性を もっている。それを具現化するかどうか。世の中を劇的に変えられる、そんな 職業だとしたら、未来学者はなんと言うだろうか。ただし、技術屋とSEの 間に線がなさそうな気もする。

<追記(というか蛇足)>

googleがいろんな進化を遂げている。おそらくは、ネットOSになるのが 最終形かもしれないと思っている。宅急便の検索だけではなく、乗り換え案内 だけでもなく、いろんなコマンドを入力して、それをgoogleが実行していく。 たとえば、「メールを読む」と入れるだけで、Webメールが読めるようにな るとか、「スライド作成」と入れるだけで、パワーポイント(のようなもの) がブラウザで作れるようになるとか。21世紀で初めて劇的に世の中を変える のは、実は彼らなのかもしれない。


2004/05/04 (火)


2004/05/05 (水)


2004/05/06 (木)


2004/05/07 (金)

−猿のコダワリ−

キーボードには、人それぞれコダワリがある(と思っている)。Enterキーの右隣にはキーがないこと(つまり、Enterはキーの集合の右端にあって、テンキーとくっついていなくて、PgUPとかPgDNがEnterの右に存在しないこと)とか、スペースキーは5センチくらいの長さがあること(変換とか無変換キーがむやみに大きくないこと)とか、F1とESCは密接していないこと(気が付くとVIを使っているのにヘルプ画面が大量に出てくることのないこと)とか。

キー配置とならんで、次には「ひっかかり」とか「深さ」がポイントになるのだけど、この微妙な「引っかかり」は、押してみるまでなかなか分からない。昔のEPSON機なんかの引っかかりは特有だし、無接点キーボードは逆に引っかかりが ない。個人的にはある程度の引っかかりがないと押した気にならないので、何度も試し打ちをして引っかかりを確かめることになる。

ついでに、ノートPCのような「浅い」キーも苦手。ある程度押し込んだ気配がしないと気が済まない。計測してみると、1日に3万ストロークもキー入力している自分には、使いやすいキーボードじゃないと、なかなか仕事もはかどらない。(Enterをおそうとして、その右隣にあるPgUPとか押して「あーっ」と思った経験、ありませんか?)

もちろん、SEならどんなキーボードでも打てて当然なのでは?と言われることもある。もちろん、他人のPCを直している時に限って。「猿のコダワリ」みたいなことのように思われているようだ。そう、自分にとってはまるで関係ない世界のように。

料理人が自分の包丁を放さないように、マラソン選手がグラム単位で靴の重さを調整しているように、SEも自分の使う道具には、やっぱりこだわりたい(って思ってるのはオレだけか??)

ちなみに、次にこだわるのは、「辞書」かな。もちろん、IMEの。


2004/05/08 (土)


2004/05/09 (日)


2004/05/10 (月)

−自己責任とは?−

まじめに堅い話なのだけど、自己責任論という言葉が一人歩きしている。つまり、「行ってはいけない」といわれた場所に出かけて、被害を受けたという単純な事実が眼前にある。だから、その被害を受けたこと自体は自業自得だといわれても、これは否定できない。

問題は、その被害が最悪の場合「人命」だったということと、少なくとも気軽に払えるようなレベルではない金額のお金が費やされたと言うこと。「多額の税金が使われている」という議論と、「人命を救うのは政府として当たり前の姿」という議論がある。どっちも正しいと思う。でも、どちらも自分の土俵で勝利宣言をしているようにしか見えない。

つまりだ。根本的には「約束を破った」のだから、拉致監禁されたこと自体に対する責任は、間違いなく彼らにある。それは「自己責任」と言う言葉の範疇にあるといっていい。人命を救うのは間違いなく政府の第一義的な「国民を守る」仕事なのだから、そのためにかかった費用を支払うといった必要はない(もちろん、救出後の帰国費用くらいは払ってもバチは当たるまい)。自己責任という言葉が一人歩きしていると思うのは、「約束を破った結果」に対する責任が自己責任なのであって、それ以上の議論が「自己責任論」の名の下に行われているから。

だから、彼らの果たすべき自己責任は、まずは状況を正確に説明して、再発の防止をはかること(つまり、他に約束を破る人がでないようにすること)。そして、自分たちが「約束を破った」ことをあやまること(誰に謝るかは明確だろう)。そして、約束を破ったのは、誰の意志でもなく、自分の意志だったと宣言すること。

子供に、熱くなったアイロンには絶対さわるな、といっても、さわりたくなる。さわってヤケドする子供もいる。病院に連れて行くのは親の義務だし、子供に治療費を請求する親もいない。ただ、親は間違いなく警告している。悪いのはアイロンを放置した親なのか、言いつけを破った子供なのか。片方だけを無条件に責めることはできない。


[後日へ続く]


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